Selbstdenken


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福永武彦『深淵』



見事な小説。


深淵、という二文字に込められた主題を克明に描き出すその技倆には天才的なものを感じる。


それは徹底的に暗く、救いがない。しかし福永その人は、決して絶望の人ではなかったと僕は思う。そうして、この物語が指し示す暗く深い淵の底から一体何を汲み取るべきか、僕は途方に暮れてしまう。
(2015.10.22)


 
『深淵』について。読後、しばらく沈黙が残ったが、今朝、目覚めてみると、その沈黙が、少しずつ、次のような考えへと形を成していくのに気がついた。


『深淵』のあの暴力性は、福永武彦の徹底的な純粋性の裏返しなのではないかと、そう思った。


本当のニヒリストが、あれほど容赦なく、救いのない書き方をするだろうか。むしろ、真剣に信仰を試みた人間だけが、あのような書き方をすることができるのではないだろうか。


ケン・ウィルバーは、かつて、「神を否定する合理的な精神の方が、神話的な神を信じる人々よりもスピリチュアリティーが高い」と言ったことがある。僕はウィルバーのその主張には少々異論がある。しかし、合理的な精神の探求が、より高次の自己を見出す旅の途上に位置付けられるならば、それもまた一片の真理を含んでいると思う。


そう、これは一人の女の信仰の挫折の物語だ。


しかし、その挫折は、そもそも信仰を持ち得ない人間には決して経験することのできない挫折である。


彼女は、自分の身に降りかかった災厄に対して、被害者としての態度を取ることができたはずであるし、そうすべきであったろう。しかし、彼女はそれを自分自身の罪と見た。そこに深淵を見た。その深淵は、彼女が自分の魂を真摯に追い求めた先に訪れたものである。彼女はそこにただ虚無を見たかもしれない。魂など、どこにも見出すことができないという境涯に至ったかもしれない。けれども、そうした虚無のなかを通り抜けることが、魂の探求に必要なプロセスなのだとしたら、それが悟りへの通過点なのだとしたら、その途上での挫折は、全くの無意味なことであったと言えるだろうか。


福永武彦という作家の持つ純粋性は、決して達せられることのない愛の試みへと向けられている。それはいわば、挫折を運命付けられた試みである。しかし、人間の高貴さは、つねにそうした無謀な試み、理想へと向かう人間の意志の力のなかにあると僕は思う。


希望を知っている人間だけが、このような絶望の物語を書くことができるのではないだろうか。
(2015.10.23)

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