Selbstdenken


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あたかも二度目の人生を生きているかのように

 

約一カ月ほどかけて、トーマス・マンの『ブッデンブローク家の人びと』を読了した。読んでいて、人生が愛おしくなってくるような、そんな小説だった。言葉によって、こんなにも見事に人間を刻み出すことができるのかという驚き・・・

 

この小説では、人間の理想形が描かれているのではない。この作品で描かれるのは、現実の人間が持つ不完全さである。あるいは、この作品は、自律的な生の営みを描いているのでもない。この作品では、ブッデンブロークという家の重みに耐えかね、没落していく一群の人びとが描かれているのだ。

 

たとえば、三代目ブッデンブロークの世代。

 

長男のトーマスは、元々が学究的な素質を持っていたはずであるのに、その方面の素質を十分に伸ばしてこなかったことが、後々になって彼に打撃を与えることになる。彼は、「人生にとって本当に大事なことは何か?」を問わずに来てしまった人間の典型である。心の底から湧き上がる「なぜ?」に耳を澄ませることをせず、その声を抑圧して器用に立ち振る舞って生きてきてしまった人間が払う代償。

 

結局、トーマスは、祖父から代々受け継いでいる商会の仕事を全てに優先することで疲れ切ってしまう。トーマスは、ギムナジウムを卒業しなかったことを後悔し、自らの死期が近いことを感じもして、ブッデンブロークという家名の外にある普遍の真理を無意識に求め始める。

 

そんな時、トーマスは、何気なく手に取ったショーペンハウエルの哲学から、ある啓示を受ける。

 

「ぼくは生きつづけるだろう!とトーマス・ブッデンブロークは、声を出しそうになって言って、胸が内側から嗚咽で震える思いがした。僕が生きつづけるというのは、このことだ!『それ』(物自体、すなわち、宇宙の意志)」は生きつづけるだろう。……『それ』がぼくでないと考えるのは、錯覚であって、迷誤であった」

 

「(トーマス・ブッデンブロークは)ほんとうは、すでに今から解放され、生まれ出たときからの、そして、そののちの羈絆と限界から自由になったのであった。自分の意志で、意識して閉じこめられていた囲壁、生まれ育ったこの町の囲壁が大きく口を開き、若いころにここかしこのぞいたことがあった世界、死が残らず見せてくれることを約束した世界が、広々とひろがっているのであった。錯覚にもとづく認識の形式である空間と時間の迷誤、そしてまた、歴史という迷誤、子孫の個体のなかにかがやく歴史として生きつづけようとする努力、最後の歴史的分解と消滅という迷誤が、――そういう迷誤が残らず精神から滑り落ち、永遠につづく現在を理解する邪魔をしなくなった。すべてが始めも終わりもなかった。あるのは、無限につづく現在であった」

 

ブッデンブロークという名前は、この宇宙の実在に与えられた仮の名前、かりそめの存在に過ぎない。本当の自由とは、この「個人」という錯覚から目覚めることだ。この気づきは、これまでのトーマスの人生が誤りであったことを示すものであると同時に、大いなる解放の経験でもあったはずである。

 

しかし、トーマスは、一夜明けて、そのような啓示に胸を打たれたことを恥じ、もうそれ以上、真理を探求しようとすることをやめてしまう。そして、まもなく、歯医者で歯を抜いた帰り道に横転し、頭を打って死んでしまう。

 

心に浮かんだ実存的な問いを最後まで問い続けることができないのは弱い人間である。トーマスは、弟のクリスチアンの自己観察癖を軽蔑し、意識を自己の外側の世界に向け続けること――トーマスの場合には、ビジネスに没頭すること――ができることが、人間の強さであると考えているが、それは間違いであった。ケン・ウィルバーが指摘したように、啓示を受けるということは、ある義務を伴うからだ。その啓示が与えてくれる直観に従って生き、その生き方そのものが神の開示する真実の根拠であるように生きるという義務が。

 

「そんなことを考える暇があったら」という声は、あらゆる超越的なものとのつながりを断ち、人間を低い位置に留めようとする、黒く重い力である。そんなことを考える暇があったら、「勉強しなさい」「仕事をしなさい」「あなたの人生を動揺させるあらゆる内面の声から目を背け続けるようにしなさい」・・・そうでないと、良い大学には入れないし、一流企業に就職することもできない。こうして人々は、物心がついて、はじめて人間に死というものがあることを、そして同時に、生というものがあることを、自覚した時の驚きを忘れてしまう。自分の外側にある声に従った方がはるかに楽だから。

 

トーマスがギムナジウムに進まなかったこと。大学教育を受けなかったこと。このことをトーマスが後悔しているのはなぜだろうか?それは、トーマスが、自分が本当に求めている問いに対する答えは、彼が人生の大半の時間を費やしている商会の仕事のなかに見出すことのできるものでは決してないということを理解していたからである。むしろ、彼がごく限られた余暇の時間を使って取り組んでいた「歴史」や「文学」の本を読むことのなかにこそ、答えが与えられる可能性があることを、おそらくトーマスは無意識に感じ取っていたのだろう。

 

トーマスと同じように、僕の両親は大学を出ていない。父親は、中学の時から新聞配達をして親兄弟を養っていたというから、大学に進むことなど思いもよらなかっただろう。母親は、一時期、もっと学びたいと思うことがあり、大人になってから通信教育を受けていたことがあったという。僕は母親が話していたそのエピソードを聞いて、なぜか悲しい気持になったことを覚えている。僕の両親の時代は、まだそのように自分の人生を自由に選べる時代ではなかった。

 

つまり、これは普遍的なテーマである。人類は、ほとんどの場合において、生まれた土地や家に縛られて生きるという不自由を甘受してきた。それは今の時代においても、実はあまり変わらない。ただ、人間はあらゆる制約から自由であるべきだという建前が存在しており、確かに相対的には、そうした自由が与えられているかのようには見えるけれども。

 

ブッデンブロークは、まだそのように自由で自律的な生活を営むことが奨励されていなかった時代の物語だ。長女のアントーニエのように、自由恋愛が許されず、トーマスや、僕の父親のように、自分の希望よりも、家を優先することが求められていた時代。あるいは、トーマスや、僕の母親のように、学ぶことが、あくまでも余暇の時間にひっそりと行われるものであった時代。

 

僕たちは、自分の生き方を自由に選べることを至上の価値と信じている世代だ。その観点から見ると、僕たち以前の世代の生き方というのはいかにも不自由で、自分を犠牲にし過ぎており、決して理想的な時代ではなかったと感じられることだろう。

 

先に書いてきたように、トーマス的な生き方は、確かに、自分を欺く生き方である。ブッデンブロークという家の歴史に泥を塗らないことを人生の最優先事項であると考えるトーマスの生き方には、確かに、自律的に生きることのできない人間の弱さがあらわれているかもしれない。あるいは、その時代における社会の在り方が、我々の時代におけるそれと比べて、あまりにも貧しいものであると僕たちは考えてしまいがちである。生まれにも、育ちにもよらず、自由に生き方を選択できること。僕たちは、そのような自由を保障する社会を築いていくべきであるということに、疑いの余地はない。

 

確かにその通りである。僕たちは、そのような価値観を広く共有しており、少なくとも精神的な次元では、生まれからも、育ちからも、自分は自由であると感じている。

 

しかし、だからといって、「不自由な」時代の人々の生き方が、我々に比べて豊かでなかったとはいえないのではないだろうか。なぜならば、僕たちの時代よりも、彼らの時代の人びとの方が、自分の人生を愛していたように僕には思えるからだ。つまり、生まれや育ちに左右されることのない自由な生き方は大切だが、僕たちはその価値を重視するあまり、生まれや育ちを愛するということができなくなってしまっているということはないだろうか。しかし、それは、自らの人生を深いところで肯定してくれる根拠を失うということであると僕は思う。

 

自らの存在と、自らの生に与えられた条件とが不可分であることによって、かえってそれを自分自身のように感じ、自由であろうがなかろうが、どのような人生を歩むのであれ自分自身を否定することは決してしまいと決意して生きること。もしかしたら、昔の人たちは、そこに生きることの価値を賭けていたのではないか。それが人間にとっての主戦場なのではないか。自由が大切であるということを理念的には理解していても、僕にはどうしても、そんな気がしてしまう。たぶんそれが、高貴な人間になることの唯一の道であるから。

 

僕が『ブッデンブローク』を読んで感銘を受けたのは、この物語に登場する人々が、まさにそのようにして自らの人生と取り組んでいたからであった。

 

トーマスの妹のアントーニエ(トーニ)は、まさにそのような生き方を貫いた人として描かれている。彼女は自尊心が高く、欠点が多い性格であるにも関わらず、その生き方は美しいと僕は思う(このような人物造形ができることが、マンの才能であろう)。トーニもまた、ブッデンブロークという家名に人生の全てを捧げた人である。自由な恋愛が許されず、家名を上げるために自らを犠牲にした二度の結婚は失敗に終わる。しかし彼女は、「人生に鍛えられた女」としての誇りを持って生きているのだ。

 

人間の不自由さに価値を認める僕のこのような考え方は、完全に時代錯誤である。しかし、自由な生き方が重要であることを頭では理解しつつも、トーマスやトーニのような生き方がある種の美しさを持っていることも、僕には否定できない(そしてまた、僕たち以前の人びとの人生がより貧困で、無価値なものであったと僕は決して考えたくない)。

 

僕の言っていることは間違っているかもしれない。しかし、「正しさ」と「美」は必ずしも一致しない。なぜなら「美」とは、「正しさ」の彼岸にある真実を指し示すものだからだ。

 

その意味では、ブッデンブローク家の人びとの生き方は間違っていたかもしれないが、美しい生き方であったとは言えるのではないだろうか。

 

そして、トーマスが死を迎える少し前、ほんの束の間ではあるが、彼を訪れた啓示は?それをつまらないことであったとトーマスは片づけてしまったが、その一瞬は、やはり、トーマスの人生全体にとって大きな意味を持っていたのではないだろうか。つまり、彼が啓示に触れたとき、このような考えに彼はさしつらぬかれたのだ。

 

僕は、この人生を憎悪したことが一度だってあるだろうか、この純粋な、逞しい人生を?とんでもない誤解だ、思いあやまりだ!僕は自分を憎んだだけだ、人生に堪える力のない自分を。ぼくは、君たちを愛している、……君たちのみんなを、君たち幸福な人たち。ぼくは、やがて狭苦しい埒で君たちから隔てられているのから解放されるだろう。やがてぼくはぼくのなかで君たちを愛している愛情、君たちへの愛情が自由に解き放たれて、ぼくは君たちのそばに、君たちのなかに住むようになるだろう。……君たちみんなのそばに、君たちのなかに!―― ――

 

作家の辻邦生は(辻もブッデンブロークから多大なる影響を受けている)、優れた文学作品は、全てある倫理的なものを指し示しているという趣旨の指摘をしている。

 

では、一体何が、人間を倫理的な行いへと向かわせるのか?

 

そのことを考えるとき、僕はいつもヴィクトール・フランクルの次の言葉を思い出す。「あたかも二度目の人生を生きているかのように、そして一度目の人生は全て間違った選択をしてきた人であるかのように、生きよ」

 

この小説を読み、ブッデンブロークの人生を体験することを通して、読者は「あたかも二度目の人生を生きているかのように」自らの人生を歩むことができる。それを読む者は、より人生を愛し、倫理的に高められた状態で明日の人生を生きようとするだろう。一度目の人生で犯した過ちを、二度と繰り返すことがないようにしよう、という誓いとともに。

 

優れた小説には、そのように人間の生き方を変える力がある。

 


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教育における《クオリティ》の問題について

 

「これはきみが研究していた《クオリティ》と何か関係があるのかい?」とドウィーズが訊ねる。

「その直接の所産だよ」

私はあることを思い出し、ドウィーズを見て言う。「それはやめたほうがいいと、きみは忠告してくれたじゃないか」

「私は、そんなことをやっても成功した人はいまだかつていないと言っただけだよ」

「それじゃ、できると思っているのかい?」

「できるかもしれないが、よく分からない」彼の表情に関心の色が濃く現れる。「ただいまでは、前よりももっと多くの人が心をひらいている。特に若い連中がね。きみのことだけではない。きみの考え方……その考え方に実際耳を傾けているんだよ。重要なことだ」

――ロバート・M・パーシグ『禅とオートバイ修理技術』(五十嵐美克訳)

 

教育の世界において、再現性のある手法を求めようとする傾向が強まっている。教育は、これまでの属人的で、独善的な傾向から解放されて、いつ、どこで、だれがやっても、同じだけの成果が出せるものである必要がある。一切衆生を救済するためには、秘教に留まっていてはいけない。「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば、その時点で救われる、といったようなものでなければならない。

 

一方、僕は、これまで教育の現場において一貫して《クオリティ》を探求してきた。目の前の生徒を、二度と繰り返されることのない固有の生の現れとして受け止めること。生徒を測定可能な存在に貶め、統計上のデータとして扱うことを拒むこと。

 

しかし《クオリティ》を探求することの大きな問題は、そこにどうしても差異が生まれるということである。どの生徒も、異なる経験、異なるスキルの集合体である以上、まったく別種の《クオリティ》をその身に纏っている。しかもその《クオリティ》は、見ることができない。それは見るものではなく、感じるものだからだ。したがって、それは決して客観的な情報として文脈を共有しない他者に提示することはできない。

 

その意味で《クオリティ》は、「書き言葉」に対する「話し言葉」に似ている。話し言葉は、同じ時、同じ場所を共有してはじめてその意味を了解することができる。言葉が人の口から発せられるとき、その言葉が持つ意味は、その言葉が発せられた状況のすべてをその身に引き受けている。そこには、書き言葉によっては絶対に伝達することのできないある質感が表現されている。客観性という手で真実の泉を掬い上げるとき、どうしても、ある一定の真実はその手から零れ落ちることになる。

 

《クオリティ》を感じるということも、これと同じようなものだ。クオリティがそこに存在することは、教育的コミュニケーションが<我−汝>の関係のなかで成立しているときには、その関係性の内部において明白に感じ取ることができる。それを感じている者にとって、《クオリティ》がそこにあることは、否定することができない。しかし、そのことは、同時に、関係の外にいる人間にそれを伝達することはできないということでもある。

 

この点が、《クオリティ》が軽んじられる主たる要因である。現代社会において最も価値があることは、「スケールする」ことであり、そのためには再現性が担保されていなければならない。しかし、《クオリティ》は、他ならぬ「私」と「あなた」の具体的な関係性において生起し、確認されるものである以上、その関係の外にある他者に伝達することはできない。したがって、《クオリティ》は、それを体験している当事者にとってはあまりにも明白で、リアルなものであるにも関わらず、そこに他者の視線が介入されることによって「なかったこと」にされてしまう。《クオリティ》には、客観性がないからである。

 

あらゆる価値は、万人にとって価値があるものでなければならない。このことは完全に幻想であると僕は思うが、現代社会を強く呪縛している考え方であることは確かである。それが万人にとって価値のあるものでないのなら、あなたのその《クオリティ》は主観に過ぎず、主観とはすなわち独善である。なぜなら私にはその価値を見ることができないから。あらゆることが科学的な手続きを経て承認されるべきであると考えるこの世界の認識の枠組みにおいては、このロジックを突き崩すことは難しいように思われる。

 

《クオリティ》を探求することは、確かに独善に陥る危険を持っている。しかし、その危険を敢えて冒すのでなければ、本当の教育はできないのではないか、と僕は思う。「独善」という風呂の水と一緒に《クオリティ》という赤子を流してしまうことは、本末転倒であるように僕には思えるのだ。あらゆる質的な差異を消去して、万人が享受できる価値のみを価値とした結果として立ち現れるのは、ただひたすらに退屈な世界でしかない。そのような世界を、本当に子どもたちは望んでいるのだろうか。

 

『禅とオートバイ修理技術』という本は、このジレンマを解く鍵を提供してくれる。この優れた思索の本は、《クオリティ》とは、客観の産物でもなければ、主観の産物ですらない、と主張する。それは客観的、あるいは主観的な実在として捉えることのできるものではなく、前-知性的に捉えられる実在である。《クオリティ》こそが客観と主観を生み出すのだ。つまり、《クオリティ》とは、「閾下自我」(サブリミナル・セルフ)が直観的に捉えた真実であり、これ以上遡ることのできない、あらゆる認識の基盤であるということができる。

 

そうだとするなら、こう言うことはできないだろうか。《クオリティ》とは、誰もが感じ取ることができるものである。しかし、それにも関わらず、それを感じ取る感性に差が生じるのはなぜか?それは、真実を客観と主観に分け、万人に共有可能な客観的真実のみに価値を認めようとする現代的発想によって目が曇らされているからではないのか?

 

ここまで考えてきて僕に言えることはただひとつ。それは、自分のVoiceに耳を傾ける感性こそが《クオリティ》とともに生きる道を切り開くということである。

 

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生徒が貸していた本を返しに来る。

「この本、どうだった?」と僕は尋ねる。

「すごくおもしろかった!」と生徒が答える。

ただそれだけ。このとき、僕と生徒の間に生起している価値は、決して他者に移管することのできない、二人の関係性のなかでのみ観察されるものである。

《クオリティ》そのものを教えることはできない。それは、互いに目配せし、相手の眼の中に同じものが映っていることを確認する、その一瞬の啓示のなかに立ち現れる。

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そのとき、あなたと生徒の間に何が起こっているのか、と問われたことがある。私には、あなたが何をしているのかがわからない。そんなやり方では、いつまで経ってもあなた以外の人がそれを教えることができないではないか、と。

 

あなたが僕と同じように《クオリティ》を引き出したいと思うなら、そう問うことをやめなければならない。あなたがこの関係のなかに入り込み、生徒と共にあるということがまずは不可欠だからだ。あなたが生徒と共に何かを行うとき、そこに自ずと《クオリティ》は立ち現れる。生徒が書いた作文が前よりも良くなっていること、彼がある本を読んで満足していることは、わざわざ分析を加えるまでもなく、あまりにも自明な真実として観察できるだろう。必要なことは、あなたの外にある客観的な何かではなく、あなたの実存そのものを参加させることなのである。

 

ふたたび、『禅とオートバイ修理技術』より。

 

「たとえ《クオリティ》の定義ができないとしても、これを知らない人は一人もいない!」と書くと、また嵐が起こったように騒然となった。

「まさか、《クオリティ》なんて分かりませんよ!」

「いや、分かっているよ!」

「そんな、分かるはずがありませんよ!」

「いや、分かっているはずだ!」こう言ってパイドロスは、それを証明するために用意しておいた材料を手に取った。

彼はあらかじめ学生の書いた作文を二つ選んでおいた。一つは、散漫でまとまりのない文章を書いているが、随所に興味深い考え方がちりばめられているもの。もう一つは、どうしてこんなにうまく書けたのか、書いた本人でも首を傾げたくなるほどの秀作である。

パイドロスは両方を読んで聞かせ、前のほうがいいと思った者にまず手を挙げさせた。すると二人の学生が手を挙げた。次に後のほうはどうかと訊くと、二十八人の手が挙がった。

「理由がどうあれ、大多数が後のほうに手を挙げたのは、そこに私の言う《クオリティ》があるからだ。結局、君たちは分かっているのだ」

 

教育は純粋に客観的な営みではありえない。「エビデンス・ベースの教育」もいいが、ほどほどに付き合うべきだろう。それは結局のところ、外部的な基準に子どもたちを当てはめようとする試みに過ぎない。なぜなら子どもを統計的な存在として扱うことは、その個人のニーズからではなく、社会のニーズをその出発点に置くということであろうから。

 

要するに、僕たちは、自分の感性で世界と向き合うことを忘れているのだ。自分の感性でそれを感じようとしさえすれば、《クオリティ》はいつだってあなたのすぐ側にあるはずなのに、それをまっすぐに見ようとはせず、他者の用意した基準にすぐに飛びつこうとするから、それが見えないだけなのである。

 

一人ひとりの質的な差異を消去したところに成り立つ普遍性を求めるのではなく、この世界に二つとない形で顕現している独自の《クオリティ》を、全身で受け止めること。それに触れているのは、他ならぬこの私の実存であり、ビック・バンから今に至るまで、誰も眼にしたことがなく、これからも眼にすることがないであろうという事実を悦ぶこと。

 

そう、池澤夏樹が書いているように――大事なことは「山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。たとえば、星を見るとかして」。

 


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ティール組織の元ネタにもなった「インテグラル理論」を実践する!!2018 Integral Japan Practitioners’Circle

 

【告知】『ティール組織』の理論的背景ともなっている「インテグラル理論」を実践的に学ぶ!

 

2018年のインテグラル・ジャパンは、インテグラル理論の実践のコミュニティとして生まれ変わります。第1回目のイベントは、長年にわたりインテグラル理論を活用したリーダーシップトレーニングに取り組んできたSteve Hardacre氏をお招きして、インテグラル理論の実践方法を学びます。

 

<背景>

Integral JapanIJ)では、2005年の「研究会」の発足以降、定期的にケン・ウィルバーのインテグラル理論に関して議論をするための空間を設けてきました。その間、日本国内でも関連図書の出版等により(ロバート・キーガンの『なぜ人と組織は変われないのか』やフレデリック・ラルーの『ティール組織』等)基礎知識が浸透し、組織論や人材論を中心とする実務的な領域においても活用が徐々にはじまるようになりました。

 

こうした状況をふまえて、この研究会も、インテグラル理論そのものにたいする基礎的な勉強をする空間ではなく、それを活用して多様な領域で活動や探求にとりくむ方々を対象としたPractitionersCirclePC)として再出発することになりました。これまでと同じように、PCもひろく門戸を開いて開催をしていきますが、今後は、これまでよりも実践者の集いとしての性格を強く押しだし、参加者間の意見交換や共同作業を主軸にして進行していくことになります。

 

たくさんの方々の御参加を御待ちしています。

 

<目的>

インテグラル理論を活用して多様な領域で活動や探求にとりくむ実践者・研究者に、定期的に集まり情報・経験・洞察を共有する空間を提供することにより、参加者間の相互学習や共同作業を促し、また、日本におけるインテグラル理論の展開を推進する。

 

<目標>

・インテグラル理論の実践者・研究者間の緊密な関係が構築されている

・各参加者が自らの活動や探求の幅を拡げる or 質を高めるために、異なる領域に専門性を有する関係者との共同作業を模索している・開始している

 

<方法>

・インテグラル理論(及び、その関連領域)の最新動向に関する情報の共有

・参加者の実践や研究の報告、及び、それに関する議論

・参加者間の共同作業の可能性の探求

 

<課題資料>

Wilber, Ken. The integral vision. Boston: Shambhala Publications, 2007.

・ケン・ウィルバー・他(2010)『【実践】インテグラル・ライフ:自己成長の設計図』鈴木規夫訳,春秋社

 

<参加資格>

・インテグラル理論の基礎を理解していること(インテグラル理論の概要については、課題図書の他には、『万物の歴史』『万物の理論』『進化の構造』『インテグラル理論入門』(I & II)等の書籍を御参照ください)

・自身の活動領域・専門領域においてインテグラル理論を活用していること、あるいは、活用の可能性を模索していること

・自身とは異なる領域に専門性を有する関係者との共同作業にたいする意欲・興味を持っていること

 

<第1回概要>

開催日時:201834日(日曜日)

開催時間:13:3016:30

開催場所:株式会社トモノカイ セミナールーム(岡崎ビル3階)

( http://www.tomonokai-corp.com/company/access/ )

発表者:Steve Hardacre http://www.criticalgameconsulting.com/whoweare/

ファシリティター:鈴木 規夫

参加費:4,000

お申込み方法

以下のフォームよりお申込みください。

https://goo.gl/forms/rYZDQleTNtnck7Kc2

 

<内容>

1.201712月にコロラド州で開催されたIntegral Life主催のイベント・What Nowの概要報告( What Now URL: https://integrallife.com/events/what-now/

2.インテグラル理論の枠組を用いて2018年度の自身の活動を展望・計画する


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【告知】映画『ギフテッド』を観て、ギフテッド教育の実践者と語る会

 

米国のギフテッドスクールで数多くのギフテッドの教育に携わってきた今瀬博さんと、映画『gifted/ギフテッド』を観て語り合うイベントを企画しました。

 

さらに今回は、特別ゲストとして、ギフテッドスクール、ハーバード大を卒業し、現在は日本の小中学校で教育活動を行っているミサ・ヤスダさんをお招きし、ギフテッド教育の体験談をお話しいただきます。

 

第1部はTOHOシネマズ渋谷にて14:10より上映の『ギフテッド』を鑑賞。上映終了後、近くの会場で第2部として今瀬さん、ヤスダさんとのトークセッションを開催します!

 

・そもそもギフテッドって何?
・ギフテッドの子どもの特徴は?
・ギフテッドの「リアル」(映画との比較から)
・ギフテッド教育って何をしてるの?
・ギフテッドにとっての「幸せ」とは?

 

などなど、映画のシーンにも言及しながら、お話いただく予定です!

 

すでに『ギフテッド』を鑑賞されている方は第2部からのご参加もOKです!
参加を希望される方はこちらのページにて参加表明をお願いします!

https://www.facebook.com/events/167004653886344/

 

※チケットの購入については参加人数をみてご相談させてください!なお、評判が良かった場合は、12月にも今瀬さんとの追加開催を考えています。


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夏の砦

 

毎年、夏になるとこの本を読みなおすことが恒例になっているが、今回、改めてこの作品とじっくり向き合ってみて、僕は、ここ数年ずっと自分のなかで取り組んできた問いに、ひとつの見通しを得ることができたように思った。

 

この作品の主人公――支倉冬子は、工芸美術館のカタログ図版のなかに収められていた「グスターフ候のタピスリ」に魅惑され、そのタピスリに導かれるように、スウェーデンの工芸研究所に留学する。しかし、そこで初めてグスターフ候のタピスリの実物に出会い、幻滅を覚える。冬子はもはや以前のようにそのタピスリに憧れを抱くことができない。それは、タピスリそのものの美的価値が減じたためというよりも、冬子自身が、美の世界に身を投じることに対して確信を持つことができなくなってしまっていたからである。

 

ここには、辻邦生が、作家になる過程で経験した美の喪失体験が反映されている。戦争の焼け野原を経験して、辻は、かなり長い間、小説を書くことの意義を見出すことができなくなる。そのことが、彼が作家になるまでの道のりを、長く険しいものにしている。辻がパリで啓示を受け、創作の契機をつかんだのは、34歳の時である。

 

これは、ある一人の無名の人物が何者かになろうとする、個性化のプロセスにおいて不可欠の経験であると思う。

 

僕が20代の頃に傾倒し、あれほど生きる指針となっていたケン・ウィルバーの思想が、今では色褪せたものに感じられてしまうのも、こうした状況と無縁ではない。彼の素朴な世界中心主義は、確かにある普遍性を示してはいるけれども、結局のところ、それは人間の固有の生を捨象したところに成り立つ普遍性でしかなかったのだ。

 

そのことに気付かせてくれたのが、この『夏の砦』という小説だった。

 

辻が書くことの契機をつかむことができたのは――また、支倉冬子が再びタピスリのなかに美を見出すことができるようになったのは――この、動かしがたい、黒く重い現実に対抗しうるのは、それに匹敵する行いを、この外的世界の上に築き上げていくのではなく、自身の内面にある美を深く味わうことであるという実感にさしつらぬかれたからであった。そうした内面の美こそが、真にこの世界を成り立たせているものであり、永遠の実在を指し示しているものであるということ。言い換えれば、それは、人生の意味とは、誰もが確認でき、理解することのできる客観性のなかにではなく、二度と繰り返すことのない、この「私」の固有性のなかにおいてのみ、見出していくことができるということである。

 

この小説のなかでは、かつて、地域の人々の信仰を集めていた仏像が、今では「万人のための」遺産として、美術館のガラス・ケースのなかに収められ、陳列されていることに対して冬子が嫌悪感を抱く場面が描かれる。

 

私はその明るいガラス・ケースのなかの仏像に、ある痛ましさを感じた。そしてそうした傷痕や残骸をむきだしのまま証明している陳列室というものに、激しい嫌悪を感じた。「なぜ生命の炎も力もなくなった仏像たちを、不具な奇怪な姿のままに人眼にさらさなければならないのだろう。それはかつて人々の慈悲に呼びかけていた浄土への窓ではなかったのか。とすれば、そうした慈悲の断片さえ感じられない陳列室の無機質の光のなかに仏像を置くことは許されないはずだ。信仰が終わったとき、それは焔のなかで消滅してしかるべきものではなかったのか」

 

辻は自身の作品のなかで、度々この問題提起をしている。世界の均一化が、かつてない規模とスピードで進行している現代の時代精神のなかにあって、僕たちは、外部の基準で自身の生きる値打ちを決定しようとする態度が身についてしまっている。しかし、僕たちが本当に生きる歓びを実感することができるためには、自身の内面のなかにある美によって、僕たちの生を支え続けていく必要がある。これが、支倉冬子が見出した芸術の意味であり、グスターフ候のタピスリを再び深い情感とともに眺めることを可能にした、冬子の美に対する姿勢であった。

 

なるほど<芸術>とはあなたの言うように<美>の自律的な世界かもしれないわ。でも古代にヴェスタの女神が火になって燃え、中世にグスターフ候が足音のよく響く城館の硬い敷石を歩いていた時代には、芸術作品はこの実生活、この実用の世界と一つになって生きていて、もっと豊かな感情をその生活から汲み上げていたのではないの?芸術から生活を追放し、信仰も讃美も追憶も怖れもみな殺しにしてしまって、その揚句に手に入れた<美>の自律性なんて、所詮は人間的感情と無縁な、感覚だけのものではないの?感覚を通して精神に到るというけれど、感覚だけで閉じてしまった世界に、どうして人間のものである精神が表現できると思うの?純粋と言えば響きはよく聞えるわ。でもそれは人間という根を失った形骸だけを指すのではなくて?意味を失った形骸だけの言葉って何なの?表現する内容もない形骸だけの絵画って何なの?私はそんなものに荷担できない。そんなものの未来が枯渇でしかないのは眼に見えている。

 

支倉冬子は物語の始めから死んでいるが、彼女の死がかなしさを誘わないのは、彼女のこうした戦い、精神の遍歴を辿り、僕たちがこの物語を読み終えたときに、彼女の存在が喪われた後にもなお、彼女がその内面において築き上げた「夏の砦」の実在を信じることができるからである。

 

この文章の始めに、「ここ数年ずっと自分のなかで取り組んできた問いに、ひとつの見通しを得ることができたように思った」と僕は書いた。それは、グローバル化の波に浸食され、すべてが数値的に還元された世界のなかで、どのようにして自身の生き方を見出していけばよいのか、という問いであった。そして、そうした外的な現実が衝きつける問に対して、僕が為すべきことは、そうした現実への適応の道を探ることではなく、自身の内面の美に忠実であることだけなのだ。

 

この点において、僕は、辻邦生の系譜に自らの仕事を位置付ける契機をつかんだように思った。形ある何かを創り出すこと、誰かに何かを教えること、僕が現在取り組んでいる仕事には、様々な意義を認めることができるとは思う。しかし、どんな仕事であれ、それが働きかける世界が、より人間的な豊かさにつながっていくものであるために、僕は全力を尽くしたいと思う。


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福永武彦『海市』

 

福永武彦の小説は、過去が現在を意味づけ、現在が過去を意味づけていく形で物語が進行していくという手法を取っている。まるで、あらゆる過去が、彼の無意識の次元においては並列に存在しているかのように。あるいは、過去もまた一つの現在であって、「それはかつてあった」という事実は、決して失われることはない。福永にとって、過去とは、おそらくそのような実在の力を持つものであった。

 

過去は無意識に蓄えられ、無意識は奈落に通じている。僕たちは自分が愛しているものを知ろうとして無意識を覗き込み、奈落に呼び掛ける。しかし、何も返ってこない。ここに、福永は愛することの不可能性を見る。もし愛が成功することがあり得るとしたら、それは、互いに相手の奈落に対して呼びかけることができるときだけである。そして、相手の奈落への呼びかけが、自分自身の奈落と呼応しているかのように感じられなければならない。しかし、一体そのようなことが可能だろうか?

 

(その意味では、『君の名は。』の世界観はこの溝を埋めるものであり、決して溝が埋まることのない福永の作品とは対極をなしている、と僕は思う。瀧と三葉は同じ奈落を共有しているからである。)

 

福永武彦の作品を読むと、かつて人は、現在とは全く違った仕方で生きていたことを痛感する。彼らが生きていたのは、現在とは異なる形の愛であり、現代人の生き方には決して見られない種類の真剣さである(それゆえ、そこにはある種のエゴイズムへの健全な肯定がある)。僕たち現代人が失ったのは、福永が生きていた時代に人々を衝き動かしていたこの無意識であり、そこに蓄えられていた豊かな過去ではなかっただろうか。

 

そして、おそらく、無意識の底に沈む過去とは、同時に未来でもあるのだ。


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人生がここに立ち止まりますように

 

ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』を読むと、怒りの感情の後に喜びが、相手に対する嫌悪の後に好感が、流れるように過ぎ去っていって、本人ですら意識できていないであろう感覚以前の感覚が、非常に微細な領域で知覚されているのがわかる。

 

人間の感情とは、確かに、このように刹那的な出来事の集積であり、確定的な何かではないのかもしれない。

 

最近、僕は、相手に対する感情とは、そう簡単なものではないという気がしている。

 

たとえば、僕はその人格形成期において、いわゆる団塊世代のカリスマたちから多くを学んできたが、彼らに共通して息づいているエゴイズムに対しては、つねに冷ややかな眼を向けてきた。けれどもその一方で、僕は彼らの従順な弟子たちの誰よりも、彼らのことを尊敬してもいるのだ。だから僕は、決して良い弟子でも、生徒でもなかったが、彼らが残してきた真実の、良き継承者ではあると思っている。何かを継承するということは、それを生み出した存在に帰依することではなく、彼らが生み出した真実そのものと格闘し、最後にはそれを手懐けることだからである。

 

家族、恋人、友人にも、同じことが言える。彼らに対する憎しみ、友情、嫉妬、愛おしさ・・・そうした感情を瞬間瞬間に経験しながら、最後にはその感情の源泉であるところのものと一つになること。和解し、肯定すること。それができることが、本当の人間の関係なのだと思う。批判と肯定が、同時に存在する場所において、僕はその感情のすべてを受け入れる。啓示は、そうした一瞬の感情のなかに訪れているのだということを、そして、その一瞬を生きることによってのみ、生の円環は閉じられ、人生は充実したものになるのだということを、僕はいま学びつつある。

 

この小説に出てくるラムジーという哲学者は、自らの生み出した哲学が時の試練に耐え、後世に語り継がれることができるかどうかということを常に気にしているような男である。時代を超えた真実に至る道のりがAからZまであったとして、自分はいまQくらいまでは到達できただろうか、Zにたどり着くことはできるだろうか、ということを、彼はいつも考えている。

 

このように生の意味を固定し、それにすがりつこうとする生き方は、決して現在を生きることがなく、現在に生きるということを、常に未来に先送りする生き方である。

 

一方、彼の妻――ラムジー夫人は、別荘で過ごしていたある日、たとえば、浜辺で家族の姿を眺めているようなとき、ある一瞬の啓示とともに、次のように願う。「人生がここに立ち止まりますように」と。

 

これとあれと向こうのあれと、わたしとチャールズと砕ける波と―ラムジー夫人はそれを巧みに結び合わせてみせた、まるで『人生がここに立ち止まりますように』とでも言うように。

夫人は何でもない瞬間から、いつまでも心に残るものを作り上げた―これはやはり一つの啓示なのだと思う。混沌の只中に確かな形が生み出され、絶え間なく過ぎゆき流れゆくものさえ、しっかりとした動かぬものに変わる。人生がここに立ち止まりますように―そう夫人は念じたのだ。

 

人生がここに立ち止まりますように。ラムジー夫人のこの願いは、僕たちが人生に期待することのできるもののなかで、最良の生の在り方を示している。それは、意識の流れのなかに訪れる一瞬の啓示を、しっかりと抱きしめることであり、このように願うことができることこそ、人間にとって最も重要なことなのだ。

 

そしておそらく、Zに到達することではなく、ラムジー夫人のような妻を持ったことこそが、ラムジーにとっての救いだったのではないだろうか。

 

 


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親友の結婚式にて

 

先日、親友の結婚式に出席しているときのことだった。

 

全く唐突な話だが、賛美歌が歌われている間、なぜか僕は、尊敬する作家の辻邦生先生が傍らにいてくれているような気がした。

 

誇大妄想と思われても仕方がない。僕は生前の辻さんにお会いしたことはないのだし、数年前に彼の作品を読んで以来、こちらが一方的に敬意を抱いているだけなのだから。

 

もう少し現実的な説明をしよう。僕は式が始まる前、たまたま辻さんの『美しい夏の行方』というエッセイを読んでいたのだ。だから、より正確に言えば、そのとき僕の傍らにあったのは彼の言葉であり、それが協会の神聖な雰囲気と結びつき、言葉の持つ密度が高められ、凝縮されることによって、辻邦生という人格の実在感となって、僕に伝わってきたのだ。文脈は言葉に力を与え、存在の確かさを力強く明示する。しかしそれは、辻さんがそこに存在するということと同じことだった。

 

辻さんが書いていたのは、この世界に在ることの喜びにさしつらぬかれた彼自身の経験についてだった。僕はこれまで、多くの友人の結婚式に出席してきたが、そこで僕が感じていたのは、あくまでも新郎・新婦という他者の喜びであり、僕はその喜びに一人の友人として立ち会っているに過ぎなかった。

 

けれども、今回僕が経験したことは、そうした喜びの経験とは性質の異なるものだった。それは、言ってみれば、自我が溶解して、そこにある非人称的な喜びが流れこんでくるような、不思議な経験だった。「結婚おめでとう」という言葉も、「お幸せに」という言葉も、そのときの僕の感情を表現する言葉としては適切ではなかっただろう。そのとき僕のなかにあったのは「ありがとう」という言葉だった。ありがとう。このような出会いを与えてくれて。そして、この言葉に主語がなかったということ。そのように他者の喜びを受け取れるようになったということ。このことが、とても大切なことのように僕には思われた。

 

存在するということ、他者とともに在るということは、おそらく、こういうことなのだろう。それは、その人の言葉を通して、すでに故人となった人の存在を傍らに感じるということであり、自我の境界が取り払われる地点において、他者と喜びを分かち合うことであるのだろう。

 

僕が結婚式の前に読んでいた言葉――辻さんは、この浄福感について、次のように書いていたのだ。

 

人が二十五歳に戻るだけの気力を持つとすると、このスペイン広場は果てしない快楽を喚び起してくれる。その時ぜひぼくらは広場の花屋で花を買うべきだろう。そうすれば広場に佇むだけでも、噴水のそばにわけもなく坐っているだけでも、百三十七段の石段を上ってまた下りるだけでも、何か歓喜に近い気持が溢れてくるはずだ。人は永遠にここにとどまりたいと思うだろう。

それは今この時自分が生きているという限りない自覚を呼び醒ましてくれるからだ。……ぼくらは”今”のなかにのめりこむ。すると、”今”は恍惚とした浄福感に包まれたアルトの声となって『お前は生きている。お前は今こそ生の本当の輝きに触っている。この前にも後にも生というものはない。今こそお前は永遠に通じている生の瞬間を全身で生きているのだ』と歌いながら、深深と響き返ってくるのである。


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不可避の選択

 

市ヶ谷の私学会館で仕事があり、法政の前を歩く。生暖かい春の風が、受験のためにはじめてこの大学を訪れた時のことを思い出させ、それまでの歳月を僕に痛感させた。今に至るまでに僕が選び取ってきたものと、選ばなかったものが、僕のなかを通り過ぎていった。もしあのとき、別の道を歩んでいたら、僕はまったく別の人間になっていたのだ。(たとえば僕はこの時ある出版社の前を通りかかったが、僕は学生時代にこの会社の入社試験を受けて、最終選考まで進んでいたのだ。もし、そのまま内定を得ていたら、僕は出版社の人間として働いていたのだろうか。ちょっと想像できない。)

 

おそらくあのとき、僕の目の前には、多くの選択肢が存在していただろう。しかし、今の自分に至る道が、今では、僕にとって唯一の選択肢であり、それ以外の選択肢を選ぶことなど、決してできなかったのだという思いに僕はそのとき捉われていた。そして、そのような別の自分というものが、僕にとってはちょっと想像できないということが、僕にある感慨を抱かせた。

 

今の自分になるために、これらすべてのことが必要だったのだ。僕が頑なに守ってきたものが、今の僕になることを、強く要請していたのだ。そこに後悔や悔恨がなかったとは、僕には言えない。けれども、人がある思想を抱き、それを頑固に守り通すとき、人はこう思わずにはいられない。「今の自分以外にはあり得なかった」と。

 

2017.3.4


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生の向こう側

 

寺で座禅をしていて、ふと、生きることの目的は、生の向こう側に出て、そこで死ぬことではないかと思った。生の向こう側?もし、そのようなものがあるのだとしたら、死は、漠とした、未知のプロセスに対して人間が与えた言葉に過ぎないのではないだろうか?

 

生のこちら側から見れば、死は、確かに重大で、暗く、おそるべき事柄であるように思われる。しかし、生の向こう側から見た死は、どのように見えるのだろうか?そこにはすでに「死」という言葉すらなく、ただ世界がそこに「在る」ことへの充実した悦びだけがあるのではないだろうか。

 

ギリシアの墓碑の悲しみはもちろん死者への哀悼だが、あれだけ悲哀が純粋化され透明になるためには、人々は、死を生の略奪者と考えず、あくまで、変転の時に過ぎぬ生を、死のおかげで超え、不変の実体に達したという同意が必要だね。悲しみは悲しみでありながら、その喪失の肯定になるのだ。といって死を讃美しているのじゃない。あくまで地上の喜びを讃美する。死は、ギリシア人にとって、生の不安定・変転を超えた不変・堅牢な実体を啓示する喪失なのだ。つまり消えることのない生の喜びがくっきり姿を現すのだ。すくなくとも墓碑のこの悲しみには、生きることの最高の美が刻まれている。ひとことで言えば生の充実としての死の承認なのだ。――辻邦生「花々の流れる河」

 

形のある雲と、形のない青空。シンキング・マインドと肉体でできた自分を雲とすると、いままではずっと自分は雲だと思って生きてきた。(中略)だけど、あるとき雲が一斉になくなってしまった。青空だけになってしまった。だけど不思議なことに、青空だけになった青空をきちんと認識できているわたしがいた。もしわたしが雲だったならば、雲がなくなってしまった後の青空を認識はできないはずなのに。――藤田 一照, 山下 良道『アップデートする仏教』

 

 

 


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