Selbstdenken


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夏の砦

 

毎年、夏になるとこの本を読みなおすことが恒例になっているが、今回、改めてこの作品とじっくり向き合ってみて、僕は、ここ数年ずっと自分のなかで取り組んできた問いに、ひとつの見通しを得ることができたように思った。

 

この作品の主人公――支倉冬子は、工芸美術館のカタログ図版のなかに収められていた「グスターフ候のタピスリ」に魅惑され、そのタピスリに導かれるように、スウェーデンの工芸研究所に留学する。しかし、そこで初めてグスターフ候のタピスリの実物に出会い、幻滅を覚える。冬子はもはや以前のようにそのタピスリに憧れを抱くことができない。それは、タピスリそのものの美的価値が減じたためというよりも、冬子自身が、美の世界に身を投じることに対して確信を持つことができなくなってしまっていたからである。

 

ここには、辻邦生が、作家になる過程で経験した美の喪失体験が反映されている。戦争の焼け野原を経験して、辻は、かなり長い間、小説を書くことの意義を見出すことができなくなる。そのことが、彼が作家になるまでの道のりを、長く険しいものにしている。辻がパリで啓示を受け、創作の契機をつかんだのは、34歳の時である。

 

これは、ある一人の無名の人物が何者かになろうとする、個性化のプロセスにおいて不可欠の経験であると思う。

 

僕が20代の頃に傾倒し、あれほど生きる指針となっていたケン・ウィルバーの思想が、今では色褪せたものに感じられてしまうのも、こうした状況と無縁ではない。彼の素朴な世界中心主義は、確かにある普遍性を示してはいるけれども、結局のところ、それは人間の固有の生を捨象したところに成り立つ普遍性でしかなかったのだ。

 

そのことに気付かせてくれたのが、この『夏の砦』という小説だった。

 

辻が書くことの契機をつかむことができたのは――また、支倉冬子が再びタピスリのなかに美を見出すことができるようになったのは――この、動かしがたい、黒く重い現実に対抗しうるのは、それに匹敵する行いを、この外的世界の上に築き上げていくのではなく、自身の内面にある美を深く味わうことであるという実感にさしつらぬかれたからであった。そうした内面の美こそが、真にこの世界を成り立たせているものであり、永遠の実在を指し示しているものであるということ。言い換えれば、それは、人生の意味とは、誰もが確認でき、理解することのできる客観性のなかにではなく、二度と繰り返すことのない、この「私」の固有性のなかにおいてのみ、見出していくことができるということである。

 

この小説のなかでは、かつて、地域の人々の信仰を集めていた仏像が、今では「万人のための」遺産として、美術館のガラス・ケースのなかに収められ、陳列されていることに対して冬子が嫌悪感を抱く場面が描かれる。

 

私はその明るいガラス・ケースのなかの仏像に、ある痛ましさを感じた。そしてそうした傷痕や残骸をむきだしのまま証明している陳列室というものに、激しい嫌悪を感じた。「なぜ生命の炎も力もなくなった仏像たちを、不具な奇怪な姿のままに人眼にさらさなければならないのだろう。それはかつて人々の慈悲に呼びかけていた浄土への窓ではなかったのか。とすれば、そうした慈悲の断片さえ感じられない陳列室の無機質の光のなかに仏像を置くことは許されないはずだ。信仰が終わったとき、それは焔のなかで消滅してしかるべきものではなかったのか」

 

辻は自身の作品のなかで、度々この問題提起をしている。世界の均一化が、かつてない規模とスピードで進行している現代の時代精神のなかにあって、僕たちは、外部の基準で自身の生きる値打ちを決定しようとする態度が身についてしまっている。しかし、僕たちが本当に生きる歓びを実感することができるためには、自身の内面のなかにある美によって、僕たちの生を支え続けていく必要がある。これが、支倉冬子が見出した芸術の意味であり、グスターフ候のタピスリを再び深い情感とともに眺めることを可能にした、冬子の美に対する姿勢であった。

 

なるほど<芸術>とはあなたの言うように<美>の自律的な世界かもしれないわ。でも古代にヴェスタの女神が火になって燃え、中世にグスターフ候が足音のよく響く城館の硬い敷石を歩いていた時代には、芸術作品はこの実生活、この実用の世界と一つになって生きていて、もっと豊かな感情をその生活から汲み上げていたのではないの?芸術から生活を追放し、信仰も讃美も追憶も怖れもみな殺しにしてしまって、その揚句に手に入れた<美>の自律性なんて、所詮は人間的感情と無縁な、感覚だけのものではないの?感覚を通して精神に到るというけれど、感覚だけで閉じてしまった世界に、どうして人間のものである精神が表現できると思うの?純粋と言えば響きはよく聞えるわ。でもそれは人間という根を失った形骸だけを指すのではなくて?意味を失った形骸だけの言葉って何なの?表現する内容もない形骸だけの絵画って何なの?私はそんなものに荷担できない。そんなものの未来が枯渇でしかないのは眼に見えている。

 

支倉冬子は物語の始めから死んでいるが、彼女の死がかなしさを誘わないのは、彼女のこうした戦い、精神の遍歴を辿り、僕たちがこの物語を読み終えたときに、彼女の存在が喪われた後にもなお、彼女がその内面において築き上げた「夏の砦」の実在を信じることができるからである。

 

この文章の始めに、「ここ数年ずっと自分のなかで取り組んできた問いに、ひとつの見通しを得ることができたように思った」と僕は書いた。それは、グローバル化の波に浸食され、すべてが数値的に還元された世界のなかで、どのようにして自身の生き方を見出していけばよいのか、という問いであった。そして、そうした外的な現実が衝きつける問に対して、僕が為すべきことは、そうした現実への適応の道を探ることではなく、自身の内面の美に忠実であることだけなのだ。

 

この点において、僕は、辻邦生の系譜に自らの仕事を位置付ける契機をつかんだように思った。形ある何かを創り出すこと、誰かに何かを教えること、僕が現在取り組んでいる仕事には、様々な意義を認めることができるとは思う。しかし、どんな仕事であれ、それが働きかける世界が、より人間的な豊かさにつながっていくものであるために、僕は全力を尽くしたいと思う。


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福永武彦『海市』

 

福永武彦の小説は、過去が現在を意味づけ、現在が過去を意味づけていく形で物語が進行していくという手法を取っている。まるで、あらゆる過去が、彼の無意識の次元においては並列に存在しているかのように。あるいは、過去もまた一つの現在であって、「それはかつてあった」という事実は、決して失われることはない。福永にとって、過去とは、おそらくそのような実在の力を持つものであった。

 

過去は無意識に蓄えられ、無意識は奈落に通じている。僕たちは自分が愛しているものを知ろうとして無意識を覗き込み、奈落に呼び掛ける。しかし、何も返ってこない。ここに、福永は愛することの不可能性を見る。もし愛が成功することがあり得るとしたら、それは、互いに相手の奈落に対して呼びかけることができるときだけである。そして、相手の奈落への呼びかけが、自分自身の奈落と呼応しているかのように感じられなければならない。しかし、一体そのようなことが可能だろうか?

 

(その意味では、『君の名は。』の世界観はこの溝を埋めるものであり、決して溝が埋まることのない福永の作品とは対極をなしている、と僕は思う。瀧と三葉は同じ奈落を共有しているからである。)

 

福永武彦の作品を読むと、かつて人は、現在とは全く違った仕方で生きていたことを痛感する。彼らが生きていたのは、現在とは異なる形の愛であり、現代人の生き方には決して見られない種類の真剣さである(それゆえ、そこにはある種のエゴイズムへの健全な肯定がある)。僕たち現代人が失ったのは、福永が生きていた時代に人々を衝き動かしていたこの無意識であり、そこに蓄えられていた豊かな過去ではなかっただろうか。

 

そして、おそらく、無意識の底に沈む過去とは、同時に未来でもあるのだ。


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人生がここに立ち止まりますように

 

ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』を読むと、怒りの感情の後に喜びが、相手に対する嫌悪の後に好感が、流れるように過ぎ去っていって、本人ですら意識できていないであろう感覚以前の感覚が、非常に微細な領域で知覚されているのがわかる。

 

人間の感情とは、確かに、このように刹那的な出来事の集積であり、確定的な何かではないのかもしれない。

 

最近、僕は、相手に対する感情とは、そう簡単なものではないという気がしている。

 

たとえば、僕はその人格形成期において、いわゆる団塊世代のカリスマたちから多くを学んできたが、彼らに共通して息づいているエゴイズムに対しては、つねに冷ややかな眼を向けてきた。けれどもその一方で、僕は彼らの従順な弟子たちの誰よりも、彼らのことを尊敬してもいるのだ。だから僕は、決して良い弟子でも、生徒でもなかったが、彼らが残してきた真実の、良き継承者ではあると思っている。何かを継承するということは、それを生み出した存在に帰依することではなく、彼らが生み出した真実そのものと格闘し、最後にはそれを手懐けることだからである。

 

家族、恋人、友人にも、同じことが言える。彼らに対する憎しみ、友情、嫉妬、愛おしさ・・・そうした感情を瞬間瞬間に経験しながら、最後にはその感情の源泉であるところのものと一つになること。和解し、肯定すること。それができることが、本当の人間の関係なのだと思う。批判と肯定が、同時に存在する場所において、僕はその感情のすべてを受け入れる。啓示は、そうした一瞬の感情のなかに訪れているのだということを、そして、その一瞬を生きることによってのみ、生の円環は閉じられ、人生は充実したものになるのだということを、僕はいま学びつつある。

 

この小説に出てくるラムジーという哲学者は、自らの生み出した哲学が時の試練に耐え、後世に語り継がれることができるかどうかということを常に気にしているような男である。時代を超えた真実に至る道のりがAからZまであったとして、自分はいまQくらいまでは到達できただろうか、Zにたどり着くことはできるだろうか、ということを、彼はいつも考えている。

 

このように生の意味を固定し、それにすがりつこうとする生き方は、決して現在を生きることがなく、現在に生きるということを、常に未来に先送りする生き方である。

 

一方、彼の妻――ラムジー夫人は、別荘で過ごしていたある日、たとえば、浜辺で家族の姿を眺めているようなとき、ある一瞬の啓示とともに、次のように願う。「人生がここに立ち止まりますように」と。

 

これとあれと向こうのあれと、わたしとチャールズと砕ける波と―ラムジー夫人はそれを巧みに結び合わせてみせた、まるで『人生がここに立ち止まりますように』とでも言うように。

夫人は何でもない瞬間から、いつまでも心に残るものを作り上げた―これはやはり一つの啓示なのだと思う。混沌の只中に確かな形が生み出され、絶え間なく過ぎゆき流れゆくものさえ、しっかりとした動かぬものに変わる。人生がここに立ち止まりますように―そう夫人は念じたのだ。

 

人生がここに立ち止まりますように。ラムジー夫人のこの願いは、僕たちが人生に期待することのできるもののなかで、最良の生の在り方を示している。それは、意識の流れのなかに訪れる一瞬の啓示を、しっかりと抱きしめることであり、このように願うことができることこそ、人間にとって最も重要なことなのだ。

 

そしておそらく、Zに到達することではなく、ラムジー夫人のような妻を持ったことこそが、ラムジーにとっての救いだったのではないだろうか。

 

 


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親友の結婚式にて

 

先日、親友の結婚式に出席しているときのことだった。

 

全く唐突な話だが、賛美歌が歌われている間、なぜか僕は、尊敬する作家の辻邦生先生が傍らにいてくれているような気がした。

 

誇大妄想と思われても仕方がない。僕は生前の辻さんにお会いしたことはないのだし、数年前に彼の作品を読んで以来、こちらが一方的に敬意を抱いているだけなのだから。

 

もう少し現実的な説明をしよう。僕は式が始まる前、たまたま辻さんの『美しい夏の行方』というエッセイを読んでいたのだ。だから、より正確に言えば、そのとき僕の傍らにあったのは彼の言葉であり、それが協会の神聖な雰囲気と結びつき、言葉の持つ密度が高められ、凝縮されることによって、辻邦生という人格の実在感となって、僕に伝わってきたのだ。文脈は言葉に力を与え、存在の確かさを力強く明示する。しかしそれは、辻さんがそこに存在するということと同じことだった。

 

辻さんが書いていたのは、この世界に在ることの喜びにさしつらぬかれた彼自身の経験についてだった。僕はこれまで、多くの友人の結婚式に出席してきたが、そこで僕が感じていたのは、あくまでも新郎・新婦という他者の喜びであり、僕はその喜びに一人の友人として立ち会っているに過ぎなかった。

 

けれども、今回僕が経験したことは、そうした喜びの経験とは性質の異なるものだった。それは、言ってみれば、自我が溶解して、そこにある非人称的な喜びが流れこんでくるような、不思議な経験だった。「結婚おめでとう」という言葉も、「お幸せに」という言葉も、そのときの僕の感情を表現する言葉としては適切ではなかっただろう。そのとき僕のなかにあったのは「ありがとう」という言葉だった。ありがとう。このような出会いを与えてくれて。そして、この言葉に主語がなかったということ。そのように他者の喜びを受け取れるようになったということ。このことが、とても大切なことのように僕には思われた。

 

存在するということ、他者とともに在るということは、おそらく、こういうことなのだろう。それは、その人の言葉を通して、すでに故人となった人の存在を傍らに感じるということであり、自我の境界が取り払われる地点において、他者と喜びを分かち合うことであるのだろう。

 

僕が結婚式の前に読んでいた言葉――辻さんは、この浄福感について、次のように書いていたのだ。

 

人が二十五歳に戻るだけの気力を持つとすると、このスペイン広場は果てしない快楽を喚び起してくれる。その時ぜひぼくらは広場の花屋で花を買うべきだろう。そうすれば広場に佇むだけでも、噴水のそばにわけもなく坐っているだけでも、百三十七段の石段を上ってまた下りるだけでも、何か歓喜に近い気持が溢れてくるはずだ。人は永遠にここにとどまりたいと思うだろう。

それは今この時自分が生きているという限りない自覚を呼び醒ましてくれるからだ。……ぼくらは”今”のなかにのめりこむ。すると、”今”は恍惚とした浄福感に包まれたアルトの声となって『お前は生きている。お前は今こそ生の本当の輝きに触っている。この前にも後にも生というものはない。今こそお前は永遠に通じている生の瞬間を全身で生きているのだ』と歌いながら、深深と響き返ってくるのである。


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不可避の選択

 

市ヶ谷の私学会館で仕事があり、法政の前を歩く。生暖かい春の風が、受験のためにはじめてこの大学を訪れた時のことを思い出させ、それまでの歳月を僕に痛感させた。今に至るまでに僕が選び取ってきたものと、選ばなかったものが、僕のなかを通り過ぎていった。もしあのとき、別の道を歩んでいたら、僕はまったく別の人間になっていたのだ。(たとえば僕はこの時ある出版社の前を通りかかったが、僕は学生時代にこの会社の入社試験を受けて、最終選考まで進んでいたのだ。もし、そのまま内定を得ていたら、僕は出版社の人間として働いていたのだろうか。ちょっと想像できない。)

 

おそらくあのとき、僕の目の前には、多くの選択肢が存在していただろう。しかし、今の自分に至る道が、今では、僕にとって唯一の選択肢であり、それ以外の選択肢を選ぶことなど、決してできなかったのだという思いに僕はそのとき捉われていた。そして、そのような別の自分というものが、僕にとってはちょっと想像できないということが、僕にある感慨を抱かせた。

 

今の自分になるために、これらすべてのことが必要だったのだ。僕が頑なに守ってきたものが、今の僕になることを、強く要請していたのだ。そこに後悔や悔恨がなかったとは、僕には言えない。けれども、人がある思想を抱き、それを頑固に守り通すとき、人はこう思わずにはいられない。「今の自分以外にはあり得なかった」と。

 

2017.3.4


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生の向こう側

 

寺で座禅をしていて、ふと、生きることの目的は、生の向こう側に出て、そこで死ぬことではないかと思った。生の向こう側?もし、そのようなものがあるのだとしたら、死は、漠とした、未知のプロセスに対して人間が与えた言葉に過ぎないのではないだろうか?

 

生のこちら側から見れば、死は、確かに重大で、暗く、おそるべき事柄であるように思われる。しかし、生の向こう側から見た死は、どのように見えるのだろうか?そこにはすでに「死」という言葉すらなく、ただ世界がそこに「在る」ことへの充実した悦びだけがあるのではないだろうか。

 

ギリシアの墓碑の悲しみはもちろん死者への哀悼だが、あれだけ悲哀が純粋化され透明になるためには、人々は、死を生の略奪者と考えず、あくまで、変転の時に過ぎぬ生を、死のおかげで超え、不変の実体に達したという同意が必要だね。悲しみは悲しみでありながら、その喪失の肯定になるのだ。といって死を讃美しているのじゃない。あくまで地上の喜びを讃美する。死は、ギリシア人にとって、生の不安定・変転を超えた不変・堅牢な実体を啓示する喪失なのだ。つまり消えることのない生の喜びがくっきり姿を現すのだ。すくなくとも墓碑のこの悲しみには、生きることの最高の美が刻まれている。ひとことで言えば生の充実としての死の承認なのだ。――辻邦生「花々の流れる河」

 

形のある雲と、形のない青空。シンキング・マインドと肉体でできた自分を雲とすると、いままではずっと自分は雲だと思って生きてきた。(中略)だけど、あるとき雲が一斉になくなってしまった。青空だけになってしまった。だけど不思議なことに、青空だけになった青空をきちんと認識できているわたしがいた。もしわたしが雲だったならば、雲がなくなってしまった後の青空を認識はできないはずなのに。――藤田 一照, 山下 良道『アップデートする仏教』

 

 

 


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告知:インテグラル理論研究会特別編:インテグラル・コミュニケーション 2017年2月26日(日曜日)

 

2017年2月の研究会・特別編(不定期開催)では、ドイツ連邦軍大学教育学部においてGlobal Integral Competenceの研究に従事される的場 主真教授を御招きして、現在 インテグラル理論がコミュニケーションの領域にどのように応用され、また、どのような成果を生みだしているのかについて御話しをいただきます。また、的場教授は、コミュニケーションを単なる情報の交換活動としてではなく、統合医療の観点から、治癒的効果を内包した営為と位置づけ、先端的な研究にとりくんでおられます。本講義では、統合的な視点をとおして人間同士のコミュニケーションをとらえることにより、この日常的な行為の可能性をいかに拡張していけるのかについて探求していきます。

 

貴重な機会ですので、御誘いあわせのうえ、御参加ください。

 

発表概要(的場氏による説明):

コミュニケーションは人間の行為そのものであり、私たちは常にコミュニケーション活動を行なっています。20世紀後半から現在に至り、コミュニケーション研究は大きな成果を上げてきましたが、その本質とメカニズムが解明されたわけではありません。例えば、コミュニケーション活動において伝達される「情報」とは何か、コミュニケーションにおける「エネルギー」とは何か等の質問にはまだ十分に答えが見出されていません。また、コミュニケーションの進化についてはほとんど議論がなく、少数の学者が仮説を立てていますが本格的な研究はまだ始まっていません。本講演ではコミュニケーションをインテグラル理論を通して考察することに、コミュニケーションの様々な新しい側面の発見が可能であることをご紹介し、以下の研究成果を発表し、参加者の皆さんと議論をしたいと予定しています。

 

・コミュニケーションの種類

・様々な非言語コミュニケーション

・コミュニケーションにおけるエネルギーとは

・情報とは何か

・意識の進化(スパイラル・ダイナミクス)とコミュニケーションの進化

・コミュニケーションと癒し

・ヨーロッパ・アメリカにおけるTransparent Communication運動

 

これらは私の研究所で現在進められている研究の一部です。詳細については、ホーム・ページをごらんください:www.ifgic.org

 

講師プロフィール:

的場 主真(まとば・かずま)

1962年神戸生まれ。上智大学大学院言語学課程修了後、ドイツにてコミュニケーション学において博士号取得。その後ヴィッテンヘルデッケ大学において教授資格を取得。現在ドイツ連邦軍大学教育学部においてGlobal Integral Competenceを研究中。2013年にはInstitute for Global Integral Competence (www.ifgic.org)を設立し、健康、経済、平和におけるコミュニケーションの役割について研究教育に従事。

 

日時:2月26日(日曜日) 13:00〜17:00

開催場所:株式会社トモノカイ 岡崎ビル3階

https://goo.gl/QeXZiw

定員:30名

参加資格:なし(定員に達し次第、締め切ります)

参加費用:4,000円

御申込は、下記のフォームよりお願いします。

https://goo.gl/forms/RLM2loxL3Zs32tUL2

 

 


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WANTED カフカ―辻邦生による追跡

 

これまで、一体どれだけの批評家が、本当のカフカを捕まえようとして、彼の作品と格闘してきたことだろうか。

 

そして、彼らが捕まえるカフカは、確かにカフカなのではあるが、どれも皆、少しずつ違っており、しばしば一貫性を欠いている。それらは皆カフカの分身であり、ある意味ではカフカなのだが、本当のカフカは、そこにはいない。この二重性、いや、多面性こそが、カフカの本質なのである。

 

そう、カフカの小説を読むときに、ある対象を指さして、「これが本当のカフカだ」と言うことはできない。正確に言えば「これもカフカであり、あれもカフカ」なのであり、言い換えれば「これはカフカではなく、あれもカフカではない」。インドの聖人が唱える、次の言葉のように。「ネーティ、ネーティ」。あれでもなく、これでもない。そして、それらすべてがカフカなのである。

 

こうしてカフカは、カフカの存在それ自体を大きな謎にしてしまう。おそらく、かなり意図的に。そして、多くの読者は、彼の術中に、見事に嵌ってしまうのだ。

 

つい先日講談社文芸文庫から発売された辻邦生の『黄金の時刻の滴り』という短編集のなかに、カフカを題材にした小説「黄昏の門を過ぎて」がある。辻邦生がカフカについて書いている、というだけでも、僕はその作品に対する好奇心を抑えることができなかったのだけれど、辻のこの優れた短編は、カフカが読み手に対して仕掛けた罠に嵌ることなく、カフカの多面性そのものを的確に捉えていた。カフカの住む街(プラハだろうか?)の、複雑に入り組んだ構造の描写と、その街を彷徨うカフカのドッペルゲンガーを、カフカの優れた読み手である主人公の青年に追跡させることによって。

 

そう、どこにも中心がなく、足場を持たないこの街の構造こそが、カフカの心象風景そのものなのだ。

 

辻邦生の、決して虚偽に惑わされないまっすぐな眼差しは、この「カフカ」そのものを正確に射抜いている。そのことに、僕は改めて辻邦生の作家としての力量を感じた。

 

 

 

 


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意味への意志

 

どうやら僕のモチベーションの源泉は、自分の内側にあるのではなく、他者の存在にあるらしい。他者の不在は、僕から創造性を奪い去る。そうして僕はもう二時間近くも、椅子に座ったまま呆然としている。意志の向かう先を、見つけることができずに。意味はつねに、自己を超えたところにある。

 

 


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友達との距離について

 

先日、高校時代の同級生と、街で偶然出会うことがあった。この3ヵ月ほどの間に、同じ人と、1度目は恵比寿で、2度目は国立で。昨日も古くからの友達と電話で話をしたのだけれど、こういう友達との再会には、いつも本当に元気づけられる。

 

昔と変わらない距離を保つことのできる友達というのは、自分の現在の位置(心の状態、得たものと失ったもの、あるいは、僕はいま幸せか?)を測る里程標のようなものであるらしい。

 

この距離は、物理的な、あるいは心理的な次元でいえば、確かに、少しずつ遠ざかっていくものである。例外的に距離が縮まることもあるけれども、多くの場合において、人間の関係は、就職、結婚、出産といったイベントを経て、あるいは、特にこれといった理由もなく、少しずつ遠退いていく。最近では、久し振りに友達と会えばいつも、決まってこんな会話が交わされる。「最近は、みんなで集まることもなくなったね」

 

けれども、そうした三次元の距離を意識するほど、かえって確かなものになっていく関係があるのだということを、僕はこの歳になって理解するようになっている。

 

思うに僕たちは、物理的、心理的な距離というものを超えたところにある、精神的な次元において、この世界のありとあらゆる存在との間に独自の距離を置くことによって、それら一切のものとある特別な関係を結んでいるのではないだろうか。そして、なぜだかわからないけれども、僕にはその精神的な距離というものが、あるものとの関係において、常に一定なのではないかと思うようになっている。

 

道端に咲く花、囀る鳥、頑として動かぬ山々や、煌めく星雲。そうしたものとの間にさえ、僕たちはつねに一定の距離をもって独自の関係を取り結んでおり、その距離が及ぼす影響のもとに、僕たちは生を営んでいる。僕にはそんな風に思えてならない。

 

その距離を感じ取るとき、僕はその一切のものに親しみを感じる。あらゆるものとの間にある距離は、あらゆる意味を担っているからだ。

 

ここ数回のコーチングのなかでも、僕のなかで、度々この「関係性」というテーマが浮上している。グリッド。青く澄んだ青空と、底知れない闇の深み。そして、その間にある緑の木々。そのなかに住む動物たち。そうしたすべての物事とつながって自分が存在しているという感覚。セッションの間、そんなイメージが僕のなかにあった。

 

そう、エリクソンの発達段階でいえば、僕は他者に対する親密さを手に入れるべき年齢に差し掛かっている。それはなにも、何か特定の個人に対するものに限定する必要はない。レディオヘッドが歌っているように――Everything in Its Right Place――すべては在るべき場所にある。

 

すべての物事に対して、僕は好悪の判断をする。僕の意識は大切にすべき対象を選別し、あるものを切り捨てるかもしれない。しかし、同時に、僕は出会うものすべてに自分を開き、それに感謝することもできる。すべての存在を平等に尊重することと、特定の対象を愛することは相互に矛盾しない。

 

すべては在るべき場所にある。

 

***

 

言語論的な世界認識では、人は、名づけることによって自分にとって大切なものを見極められるようになると考える。

 

本当にそうだろうか?

 

人が世界を名指す前には、あらゆるものとの親密な関係を築いていたのではないだろうか?

 

 


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